中屋彦十郎

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中屋彦十郎

出会いこそ人生の醍醐味!!

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中屋家の祖は山城の国の出身で戦乱のなか、落武者となって加賀の国・金沢の戸室山の麓に居を構え所司となっていた。中屋家には代々伝えられた家伝の薬があり、村人に分け与えていたところ評判がよく買い求められていた。
思い切って初代は町人となり天正7年(1579年)金沢・南町において薬種業を創業した。代々が彦十郎を襲名し当代は15代となる。

中屋家では医王山や近隣の野山で採れる薬草を販売する傍ら、代々伝えられてきた家伝薬・混元丹の製造販売を始めた。
それ以来、代々が伝承を重ね寛文年間には前田綱紀公より前田家伝来の加賀三味薬といわれる紫雪、烏犀円、耆婆万病円の製造販売を許可され
前田家御用商人として薬種販売のかたわら、江戸、明治、大正、昭和と製造販売がなされてきた。
江戸時代には町奉行所から町年寄を拝命し、享保、宝暦、寛政と60数年に渡って務めた。
明治11年(1878年)10月2日には明治天皇の北陸巡幸が行われた。
明治天皇は岩倉具視以下随行員800人を伴い、新潟、魚津、富山を経て金沢に到着し、
市内の中屋彦十郎宅に逗留された。
今話題の「混元丹煉り」は江戸時代の原処方に限りなく近くするという精神のもとに
胎盤(プラセンタ)を配合した。原典に忠実に製造したということがいえる。混元とは胎盤という意味であり、丹(タン)とは赤いということである。
つまり混元丹とは胎盤(プラセンタ)が含まれている赤いものということができる。
先祖の遺志を受け継いだ15代当主・彦十郎は金沢を代表する名跡・混元丹を煉りとして発売している。
甘くて飲みやすくお茶をいただく前に舐めると金沢の歴史に思いを馳せることができるだけでなく、歴史都市・金沢の旅の記念ともなるのでぜひともお奨めしたい逸品といえそう。
現代表者は金沢に生まれ、金沢大学薬学部を卒業。
同大学では生薬学を専攻。
薬剤師免許取得。
同大学専攻科で二年間の研究生活を経て合資会社中屋商店 (漢方薬製造業) へ入社。
丸粒の混元丹などを開発。
漢方医学と漢方・生薬をライフワークとして、現場の接客の中から地域に数多くの実績を上げ、確固たる信頼を得ている。
彼の漢方・生薬の原料の良し悪しを見究める鑑織眼は卓越したものがあり、どの商品が信頼できるか判断し厳選して採用している。
その上どの製剤がお客様に最も適切なのか漢方生薬学や薬学知識をもとに、多くの薬 の中から選択して皆様にお届けしている。
特に漢方・生薬の『牛黄』については造諮が深く、牛黄鑑定士とも言われ、金沢では唯一人の専門家でもある。
「商いは続けてこそなんぼかの価値」と古老に言われ、ただ実直にやってきたと彼はいう。
時代によって薬屋の商いの実態も変化してきた。
老舗の精神を維持しながら、開発と改良にも心を砕いている。人口100万人に一軒存立するかしないかといわれる漢方専門薬局に固執しつつ、
先祖伝来の「中屋彦十郎薬舗」の暖簾を維持することこそ肝腎と考え、商いを続けてきている。
これからも、暖簾の維持を第一義に考え、混元丹煉り・丸粒・飴・前田利家公飴などの製造販売と漢方生薬の売買を主力に販路を全国に拡げている。
近年は全国区としての信用も確立しつつあるといえそう。
ぜひこの機会に当店ホームページをご覧ください。

15代当主中屋彦十郎


漢方・生薬コーナー 店内写真

加賀能登の家 (田中喜男編) 北国出版社刊、昭和50年10月1日発行に中屋家15代として紹介されている。

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金沢の老舗 昭和46年6月1日発行 (本岡三郎、松原茂監修) 北国出版社刊のなかで田中喜男氏 (北陸史学会会員)の紹介文で次のように紹介されている。
(中略) こうしたなかで、400年以来のノレンを守ることは並大抵のことではなかった。14代彦十郎氏は昭和33年辛苦のなかで病没した。嗣子健吉氏は父の遺言によって金沢大学薬学部を卒業して39年15代彦十郎を継いだ。 (中略)
中屋家では当主は代々が彦十郎を襲名している。当代彦十郎は昭和39年裁判所の許可を得て戸籍名健吉を改名して代々の当主名彦十郎を襲名したのである。


・明治11年(1878年)8月、金沢の南町の中屋彦十郎(13代当主)は金沢区務所(市役所)へ呼ばれ、明治天皇の北陸巡幸の金沢行在所に予定されているとの通告を受けた。8月27日に、県官勝木菊正の案内で先発官の内務少輔林友幸宮内務少書記官桜井純造、少警視佐和正ら10人が見分し、
行在所(あんざいしょ)として決定された。一同が引き上げた後から、宮内省御用係小平美近は中屋番頭の熊谷久平、大工の近田近田市郎平に対し、門・湯殿・厠などの建て方について指示があった。普請が終わりに近づいた頃、店舗を南町79番地へ移動し、ここで臨時に営業し、衣服・什器類などもすべて移動し、家族全員も他家へ移動した。行在所となる自宅には13代当主の彦十郎と父寛次、番頭の熊谷久平・川崎田伝七郎が残った。



・明治11年(1878年)10月2日明治天皇の北陸巡幸が行われた。明治天皇は岩倉具視以下随行員800人を伴い、新潟、魚津、富山を経て金沢に到着した。金沢市内の中屋彦十郎宅に逗留されたが、たまたま中屋家では離れを増築中であり、中屋家の伝統や周辺の地理的状況などを考慮し決定したとのことである。3日間の滞在中に陛下は金沢市内を視察したがその目的は明治天皇の威光を人々に知らしめることだったといわれる。
行在所(あんざいしょ)は以外とこじんまりしている。上記の部屋のほかに湯殿、厠などが併設されているが極めて質素である。


・後日、中屋家では画家に依頼して明治天皇陛下の御影を描いてもらい掛け軸にして保存した。
この写真は本来はこのサイトの一番上に掲示すべきであるが、説明の関係上この位置としたことはご容赦願いたい。



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