用水、土塀、芸能の町、金沢(6)・長坂用水

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用水、土塀、芸能の町・金沢 (6)


長坂用水
辰巳用水が完成してから35年後、長坂用水は加賀藩の新田開発事業として1667年(寛文7年)に着工し、1671年(寛文11年)に完成した。藩命により野々市町押野の十村役後藤太兵衛が開墾したと伝えられている。江戸時代の初期であるこの頃は野田山の北西麓は荒地であり、泉野村、泉野出村、泉野新村を開拓したが、畑作物しかできない荒地で、ここに水田を開くためには用水が必要であった。この用水の完成後長坂新村といわれる長坂、長坂台などのでも米作りができるようになった。五代藩主前田綱紀の時代である。旧取水口は現在の小原町にあり、内川左岸の斜面を縫うように流れていた。1973年(昭和48年)に新内川ダムと上水道導水路が完成し、約4km水路が短縮された。この導水路は不足する金沢の上水道を補うため内川の水をせきとめ犀川を越え、犀川浄水場へ送るために作られたものである。だから一部は水道の導水路を利用していることになる。
現在は山川分水槽が始点となっている。用水の延長は約9.1km、周辺部からは比較的高台にあたる一帯に水を引くために、台地面に沿って約10km遡り、最終的にはトンネルを掘って川に近ずき取水している。また、水路の規模や水路位置を決める測量技術やトンネル堀削技術などは辰巳用水のノウハウが受け継がれた。農業用水として計画された長坂用水は寺町台地の広大な荒地を開墾し新田を開発するのが目的であった。この1600年代というのは戦国の世が終焉し安定な時代が到来し、大規模な水田開発が最も進んだ時期ということらしい。農本主義の時代にあって新田を開発することは財政基盤や社会基盤を整備するうえで重大な施策といえたのではないだろうか。
山川分水槽から野田区画整理事業地までは竹林を縫うように用水は流れ、築造当時の面影もよく残っている。「石川郡長坂用水実測全図」には「明治参拾六年八月地調製とあり、近代的な用水改修工事が行われる以前の山間部を流れる長坂用水の姿を伝えている。それによれば、水路の幅員は1.8〜2.7mであり、用水の右岸、谷側に沿って隧道を除く全線にわたって道路が描かれており用水沿いに管理用通路が作られていることもわかる。
山川分水槽から野田区間の勾配は約300分の一〜400分の一であり、辰巳用水の勾配と似ているのはそのときの技術を参考にしたものと思われる。
野田区画整理事業地より下流は、現在も農業用水として利用され続け、雀谷川や十貫川と名前を変えながら泉野、有松地区を経由して伏見川へと合流している。
当時はこの用水の完成により新たに1,000石の新田が開発されたといわれる。


・江戸時代の古地図では右下から左上に向かって寺町通りに沿って伸びているのは長坂用水の支流であろう。
左下の地黄煎町近辺を横切る大きな流れは長坂用水の本流が名前を変えた雀谷川か。


・現在の始点となっている別所地区にある山川分水槽。





・別所地内を道路に沿って流れる用水。





・トンネル内部はいつでも気軽には探索できない。用水の流れを止め、内部を歩きやすいようにしないと普段は水は胸ほどある。金沢市都市政策局文化財保護課主催の用水探索の行事が行われ参加した。


・竹林を縫うように用水は流れてゆく、近くの山の水も併せて流れは作られている。



・用水の入口はかがまないと入れないくらいの高さであり、辰巳の隧道とは一回り小さいという印象だった。
横穴は採光、換気などの役割をはたすだけでなく、いくつも作ることによって工事の短縮をはかり、上流・下流から二手に分かれて掘り進むことができるという利点もあった。貫通点の食い違いを補正したり、点検用としても利用された。


・隧道内部は立って歩ける部分もあるが大概は少しかがまないと歩けない。
この隧道は法師の隧道と呼ばれ、法師山といわれる場所に位置し、上流側約130m下流側360mの併せて約360mの隧道である。
辰巳用水の4kmにも及ぶ隧道とは比べものにもならない。
比較的保存状態がよく、建設当時の面影を残している。隧道はノミによる手掘りで、無数のノミ跡が残っているのが確認された。用水の測量や掘削の技術などは辰巳用水のノウハウの蓄積もあり、辰巳のような城内の生活用水の確保という緊急命題もなく、工事着手時から4年後の完成という年月から考えても比較的のんびりと、限られた予算と人員で築造されたことが推測される。



・山側環状道路の新設により、新たに移し変えられ流れてゆく水路。この先、長坂用水は分流する。
陸上自衛隊金沢駐屯地前の野田交差点を右折した流れは暗渠となり、金沢大学付属高校前を通り、
十一屋通りを暗渠のまま、再び表に出て裏通りを真っ直ぐに流れてゆく。


・金沢の山側を南北に縦断する自動車専用道路で、これができてから随分と便利になった。



・この野田の墓地近くを流れる用水は綺麗に整備されているが、かっては野田の墓参りのときに目印になったり、長靴や手を洗ったりと金沢市民に親しまれた流れであつた。環状道路の完成で道路の反対側に移されていた。


・野田地区を流れる用水。






・石川県立泉丘高校裏手を流れる用水だがこのあたりから十貫川とも呼ばれている。この流れは泉野八幡神社の前を流れる用水と県立二水高校前を通り
泉野小学校、金沢市総合体育館横を通しすぎた用水との合流である。


・泉野八幡神社前を流れる用水。


・石川県立泉丘高校横を流れる十貫川。


・鶴来街道を越え左折し、住宅地横を流れる十貫川。鶴来街道は藩政時代(明暦年間1655〜58年)すでにあり、前田利常の頃に築造されたもの
らしい。


・大通りを越え円光寺地内を流れる十貫川。


・この部分で十貫川は排水路と二手に分かれるが、右側に流れる用水の水量が多く本流と思われる。


・ゆるい斜面をゆったりと流れる十貫川。


・南部の幹線道路である金沢小松線を横断して南部方面に流れてゆく十貫川。


・伏見川へ合流する手前の十貫川。


・これは伏見川であるが、写真下部に長坂用水の出口がある。


・長坂用水も寺町台地を潤し、畑や田地に作物を実らせるための農業用水だから、幾つもの流れに分水し、また合流する。
この流れも野田交差点から寺町1丁目方向に向かった流れの分水である。十一屋大通りの裏通りを若草町と十一屋町を
境に流れてゆく。

・野田中学校横を流れる長坂用水の傍流だが本流かもしれない。


・内側環状道路小立野、古府線を跨いだ用水はここで、雀谷川と名前を改め泉野一帯の荒地の灌漑用水として利用された。
現在では殆ど田畑はなく住宅が密集している。

・泉野の旧バザールの横を通りすぎる雀谷川の流れは峻険な山並みを縫うようにながれる川を思わせる。


・地黄八幡神社の参道。当時の人達が地黄に感謝して建てたものか。
金沢市には「地黄煎町」と言う町名がある。当時ここでは漢方薬の地黄を煎じて飴状にして売られていた。夏には滋養強壮剤として広く愛用されていた。多くの農家で地黄が栽培されていたという。漢方の処方でも八味地黄丸として地黄が配合されている。八味地黄丸は中高年の滋養強壮剤、前立腺障害、糖尿病の名薬として良く使われている。


・近くには地黄八幡神社がある。このあたりは藩政時代には地黄が栽培されており地域の人達の重大な産業であった。
地黄煎飴といっても現在のような浅田飴や南天喉飴のようなものではなく地黄を圧搾して汁を絞り出し、お湯の上で半減するまで煎じ詰める。
滓を絞り去り、さらに水分を蒸発させ堅飴のようにして仕上げる。場合によっては水飴を加え黒い「おこしあめ」のような状態に作り上げる。これを数日放置すると、堅く固まるのでノミでおこして切って食べる。滋養強壮によく夏の暑さあたりや夏ばてに効果がある。


・泉野地内を流れる雀谷川、ほとんど田畑を潤す用水の役目は済んでいる。


・かって焼肉店があった裏手を流れる雀谷川。地黄煎町を流れていた地黄煎排水路と合流し、有松交差点を斜めに横切る。


・有松の北陸街道を再び横切った用水は伏見川へと合流する。


・写真中央部左側に確認できるのが雀谷川。この地点で伏見川に合流する。右に見えるのは横川大橋である。


・十一屋大通りを暗渠となって流れる長坂用水の分流。


・長坂用水の分流の犀川への出口。下菊橋の上手にある。


・犀川にかかる下菊橋から白山山系の山並みを遠望する。
こうやってみてくると用水を残す作業も時間と経費のかかる大変な事業だと思う。
歴史を後世へ残すというのは道楽心がないとできないという印象を受けた。

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