用水、土塀、芸能の町、金沢 (1)
金沢は小立野、寺町という二つの台地と犀川、浅野川という二つの流れを利用して作られた町といえる。小立野台地の先端部に作られたのが、兼六園であり、金沢城である。当時、金沢は尾山といわれ一向宗徒の居城であった。
1580年
(天正8年)
織田信長の武将柴田勝家が加賀に侵入し、配下の武将佐久間盛政が金沢御坊を落し入城した。金沢城の最初の主は佐久間盛政である。
盛政の治世は三年ばかりで、1582年
(天正10年)
本能寺の変で信長が倒れ、秀吉が賤ケ岳の合戦で柴田勝家と闘った。利家は当時は七尾の小丸山城を出陣し勝家に味方し手取川まできて布陣し、戦況の様子を伺っていた。
佐久間盛政は膠着状態の戦局を打開するため戦をしかけたが、これが柴田軍総崩れの原因となった。
越前北の庄で勝家がお市の方とともに自刃し果てたのは多くの人の知るところである。手取川を越えずに布陣していた利家は軍を引き払い七尾に戻ろうとした。これが幸いして逆に秀吉軍に味方することになり、1583年
(天正11年)
利家軍は敗れた盛政軍を追い払い金沢城に入城した。
領国の支配をするのにどこに、城を築くかは当時の戦国大名にとっては重要な課題であった。利家は考えたに違いない、天然の要害に囲まれた金沢は格好の地形をしており、かつ平地の部分利用して町を築くこともできる。ここを居城にできればと利家は内心深く思ったことだろう。今回は戦国の武将になったつもりで、金沢の町をどうすれば敵の侵略から守り、日々平穏に暮らし火災や浸水の害を防ぎ、豊かな土地を作り上げることができるか考えてみよう。そのことが「用水」の必要性へと繋がっていくのである。
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江戸時代の金沢城絵図
金沢城は小立野台地に作られた平山城である。山城と平城の中間タイプということである。御多分に漏れず周囲には堀がめぐらされている。利家入城時点では石川門前の百間堀が築造中で水を貯めることもできず空堀でその他の掘割も築造しても取水する水がなく、充分には完成されていない。
1592年 (文禄元年) 二代藩主利長は金沢城の周囲の土塁を石垣に修築している。掘割の築造もすすめているのは北部、西部方面からの敵の侵入を防ぐ目的が考えられる。白鳥堀、宮守堀もこの頃作られている。
下図を見てもわかる通り、本丸、二の丸、三の丸とと配置され、河北門が作られ堀が穿たれている。さらに城の北側に新丸が造成され、新たに大手門と大手堀が築造された。それと城を外周円状に取り囲むように東西外惣構堀、東西内惣構堀が築造された。設計 (縄張とよばれた) をしたのは高山右近、工事を実施(普請) したのは篠原出羽之守である。惣構堀とは川や用水を利用して城の外堀としての役目をもたせたものである。
1600年 (慶長5年) 天下分け目の関が原の戦いがあった。
1602年 (慶長7年) 金沢城天守閣が炎上し消失した。それ以来天守閣は作られていない。火災が起きると水の必要性が痛感させられる。当時は破壊消防であり、消火設備といっても初期消火に桶に井戸水を貯めておく程度のものであったとはいえ、堀に溜める水がないというのは防火や敵の侵略の点からも不安のそしりを免れないものだったろう。
1614年 (慶長19年) 、1615年 (元和元年) 大阪冬の陣、夏の陣で豊臣氏が滅亡した。
1620年 (元和6年) には城内の残り火の不始末から出火し、本丸を消失している。
1631年 (寛永8年) には寛永の大火が発生している。
相次ぐ火災により初代利家以来の財産も散逸し、このままなすがままに放置しておくのはあまりにも無策すぎた。五代綱紀が没するとさしもの百万石の加賀藩も借金まみれに陥ってしまったといわれるくらいである。(元禄期から宝暦の大火以前の金沢城、すでに堀には水が溜められている)
実際に自分の足で上辰巳から小立野、兼六園、広坂、尾山町、彦三、浅野川と歩いてみて一番辰巳用水を作らねばならないという必然性は城内の防火用水と生活用水の確保という点だったろうと思う。その他の農業用水や新田開発、周辺藩士屋敷の防火や生活用水などは後に考えられた用水の利用法だろう。用水の築造は敵への防備というが、一体誰から金沢を守るというのか。当時1615年 (元和元年) 以降は元和えん武と言われるくらい平和な時代になっていた。惣構堀や用水を作ったところで、どうして徳川幕府30万の機動部隊を防ぐことができるのか。空堀であった所へ余った用水の水を流しただけで、既に加賀藩は幕府に対して何一ついえる立場ではなかった。現在の日本と同じで星一つになってしまっていた。1599年(慶長4年)東西の惣構堀を築造がはじめられた。
では何故惣構堀を作ったのか。それは工事を指揮したのは高山右近、普請したのは篠原出羽であることを考えると理解できる。彼らは与えられた事業部を確固とした組織として確立するために、当時まだ豊かであった藩財政を背景に自らの能力と地位の安定を画策して進めて行った事業ではなかったのかと考えられる。 -
辰巳用水
1631年 (寛永8年) 三代藩主利常の時、城下の法船寺町から出た火は瞬く間に6000戸の家々を焼き尽くし、あげくのはてには飛び火により金沢城までが焼け落ちるという大火にまでなってしまった。城内には数百人の人々が生活しており、防火や生活水の確保ということからも水の確保は緊急の課題となった。意を決した利常は井戸水だけに頼らず城内に水を引き入れる必要性や掘割に水を貯めることの有用性を考慮し用水の造成を最重要緊急課題に取り上げた。事態を重く見た利常をはじめ重臣達は失業対策事業と利水を課題に掲げ、縄張りを板屋兵四郎に、普請を篠原出羽などに命じた。焼け出された藩民は一戸あたり六人としても36000人の人々が住む家もなく、職も失う非常事態となったのである。ただでさえ暗い金沢の町はまさに漆黒の闇だった、
当時の人口が60,000人としても、実に半数の人々が明日の生活もできない状態に陥ったわけである。貯えた金銭、米、衣類、家財道具など藩主も藩民も多くを失った。御殿の奥方、腰元達は腰巻を洗う水もないと大騒ぎとなった。取り敢えずは焼け残った藩士屋敷に移ったとはいえ藩主利常は連日の女房達のせっつきに戒厳令並みの緊急、非常事態を宣言。工事は一年で完成させることはいわば藩主命令だったのである。
先ず第一に金沢城へ水を引き入れるにはどこがいいのか、議論の末、犀川上流ということになった。縄張りの板屋兵四郎は犀川上流を探査した。当時は上流にダムもなく水はとうとうと流れていたことが推測される。船を出して更に精査した結果、水の流れが夏でも枯れない上辰巳雉地方が取水口に選定された。下図写真の東口よりさらに700メートル下流にあたる。板屋は設計図面引くに当たり軟弱地盤を避け、勾配を計算し、水量、流速なども按配しながら、水路を定めた。篠原出羽は金沢城内までの12キロを150工区に分けた。一工区あたり30人の工事人を動員、一日3交代の昼夜兼行とし、特に取水口からの隧道部分4キロの堀削に、集中的に工区を設け縦堀を139ケ所も設けながら隧道堀削を進めた。特に隧道部の堀削には藩内の鉱山などの専門職人が集められた。動員された工事人は合計15,000人にものぼり、一年で実に延べ5,500.000人の人々が工事に動員されたことになる。この計算でいくと、隧道部4kmは一日一尺、その他の箇所8kmは1日8m掘り進めば一年間で余裕で完成できることになると考えたに違いない。
かって昭和の中頃、この辰巳用水の周辺に生活していた人達の話によるとこの用水は「殿様水」と呼ばれ大変気張って気張って恐いもの見るように見ていたという話である。藩主が歴史のかなたに行ってしまったのに市民の間ではその習慣は抜けきらないでいたようである。
犀川の東岩取水口は標高95.2メートル、兼六園入り口で53.5メートル、二の丸が50.2メートルの標高である。旧藩時代の小立野台地の絵図、地図の下方から左上まで真っ直ぐに伸びているのが辰巳用水である。
下図は辰巳用水の断面図である。犀川上辰巳にある現在の辰巳用水の東岩取水口。辰巳用水の取水口は寛永9年(1632年)の完成時は雉にあった。その後、寛政11年(1799年)頃。河床低下のために130メートル上流の古川口に移動、さらに安政2年(1855年)、取水が容易にできる更に上流の東岩に移動した。

・普段はこの取水口内部には水が滔々と流れており探索はできない。特別の設定された日に
水を止めて探索することになる。
・現在、東岩取水口付近は堰を作って水を溜めてあり取水口に水が流れやすいように築造されている。
・隧道部分は長さ4km、写真でもわかるように大人がらくらく立って歩けるような高さがある。
これだけの大きなトンネルを手掘りで1年で完成したのは大土木工事で驚嘆に値するように
考えられるが、よく理詰めで考えるとそれほどでもない。当時焼け出された働き手は約15、000人
昼夜三交代で働いたとしても常に5,000人の工事人が働いていたことになる。約150ヶ所の横穴を掘り
そこから隧道部分を掘削する人は一工区に30人強、1日当たり1尺(30cm)掘り進んだとして100日
で完成する。
・この部分から降りて隧道部分に入ってゆく横穴である。辰巳用水にはこの横穴が現在わかっているだけでも139ヶ所ある。横穴は採光、換気など多様な役割を果たしている。横穴の掘る方向と長さを決め、上流・下流に向けて掘削を行った。このような掘削は工区の分割とともに、工期を短縮できるだけでなく方向の誤差、貫通点での食い違いを小さくもできる。また、隧道完成後は点検にも利用された。
鉱山職人が技術面では指導したと思われる。たがね、つるはし、げんのうなどを用いて堀削された。
・隧道の内部は手堀で掘りすすめられており、ところどころに明かりを灯すための「タンコロ」と呼ばれる燭台が掘られている。それは空気の流れによって消えるのを防ぐ意味もあった。結合点での岩盤の食い違いが少ないことから、先ず小断面で堀削を行い、貫通後に拡げを行うという先進導抗法という方法が用いられたようである。
・隧道内部には殆ど植物は生えていないが、明かりの当たるところには地衣類と思われる植物が生えている。
この用水の全体の勾配は200分に一で、トンネル部分もほぼ同じである。隧道の天井は半円、底は矩形であり、幅は1.5〜2.1メートル、高さは1.8メートル前後である。結合点直近の下流部からはやや広めの断面で掘り進み上流部から堀削してきたトンネルと出会いやすいようにした。
しかも上流から下流へ確実に水が流れるように7割以上の結合部分で下流部の断面のほうが大きい。
・隧道はいくつもの横穴を掘って工事は進められた。現在わかっているだけでも139ケ所の横穴が掘られ隧道部に到達したところでそれを繋いでいったトンネルということができる。当時の測量技術は南蛮流と中国流を取り入れた測量であったらしい。この測量技術がトンネルの堀削と勾配確保などを確実にし、短期間で完成させた要因でもあった。
・金沢市末町地内の犀川浄水場を越えたところの場所である。ここから用水は北上し、兼六園に向かって流れて行く。
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・辰巳用水末付近
・涌波公園の上部あたりの辰巳用水。遊歩道として整備されている。辰巳用水焔硝坂付近-遊歩道として整備されている。
辰巳用水焔硝坂付近から涌波方面への分水路。
(辰巳用水錦町付近、ここで標高81.8メートル)
牛首と言われた場所で、ここから先は暗渠となって小立野台を兼六園に向かって走る。出羽町にある旧奥村家の前を通る辰巳用水、何故こんなに水が少ないのか。旧家老の屋敷跡の土塀だから、風格、長さ、高さなど
他を圧するものがある。
・金沢市末町にある犀川浄水場を迂回するように進む辰巳用水である。この写真の左側は崖になっておりはるか下には犀川が流れており滔滔と流れる水音が聞こえる。
・この写真は犀川浄水場の横を流れる辰巳用水である。近所の方々はみんな知っているがこの右手中央部に見えるのが辰巳用水の兼六園専用の導水管である。ここから約6キロ兼六園までの道程を辰巳用水に沿う形で流れている。上の上の写真をみてもわかる通り旧奥村家屋敷の前の兼六園入口には水がなくても、下部写真の山崎山の兼六園取水口に滔滔と水が流れて来るのは専用導水管のせいである。このことを知っている金沢市民は余りいない。専用の導水管にはゴミが溜まらないように管理されている。
・灯篭の雪の下部に暗く写って見えるのが辰巳用水の兼六園取水口である。この一帯は山崎山といわれている。
上の写真の続きがこれだから、どうも水を補給しているのかもしれないと思ったがその通りで、兼六園専用の辰巳用水専用の導水管があることを後日知ることになる。
・兼六園内を流れる用水。手前に見えるのは戸室石で作られた雁行橋である。園内では最も庭園美が完成されてるところといわれている。
・よく観光ポスターに紹介されている兼六園の霞が池である。琵琶湖を模して作られているという。この水は辰巳用水である。
寛永11年(1634年)、伏せ越し(逆サイフォン)で兼六園から城内へ水を送った。最初は木管を使用していたが、藩政後期天保14年(1842年)
13代藩主斉泰は水圧に耐えることのできる石管に変えた。
・霞が池を流れ出た用水は階段状になって瓢池にたどり着く。
・霞が池を流れ出た水は翠滝となって流れ池を形ずくっている。瓢池と呼ばれる。
・兼六園の蓮池門口を出た用水は左折し、広坂へ向かって流れてゆく。用水幅は狭いが、激しく音をたてて流れている。
・旧国立病院前(旧家老奥村屋敷)前を通過した用水は兼六園には入らずに左折し護国神社前を通り、美術館に向かって流れてゆく。
・兼六園には入らずに左折し流れた用水は石川県立美術館横をせせらぎとなって流れてゆくが、これは最近になって作ったものである。
1983年(昭和58年)に引き込まれ「美術の小径」と呼ばれている。
・美術館横を通りすぎた用水は小立野の台地から本多町の公園へ向かって滝状の階段を音をたてて流れてゆく。
横には階段が作られ遊歩道として整備されている。この流れは西外惣構堀につながっている。旧金沢大付属小中学校横を流れる用水、左にあるのは金沢21世紀美術館で用水路も拡幅され昔とは違い整備されていた。
写真上の用水は橋を横切るとこのように二方面に分かれる。この場所は金沢市役所裏にあたり西外惣構掘の遺構である。
近くに石柱が立っていてそのことに関し説明がされている。惣構掘を造ってから後に用水ができたのだから、その水を利用して
惣構堀に水を引き込んだということだろう。宇都宮書店横の小公園前で辰巳用水は鞍月用水と合流する。
・金沢のメーンストリートの一つである広坂通りを流れる辰巳用水。
兼六園の蓮池門口を出た流れはこの写真の用水に繋がっている。旧県庁舎前の中央分離帯横を流れる。旧藩時代にはこの水路はなく、市役所庁舎前を流れている。
現在の流れは小立野から兼六園に入り、園内を通過し蓮池門通りを下り広坂通りを流れる分水である。かってはこれから先は右折し、旧制四高グラウンド横から尾山商店街前を通り、西町、近江町へと流れていた。現在は暗渠となっている。
・金沢はかって旧制高等学校の内でも、全国に八つしかない高等学府・ナンバースクールのある町だった。今は落ちぶれたとはいえこの栄光の歴史が金沢市民に複雑な陰を落としている。今も堂々たる煉瓦造りの校舎は上の写真の用水の前にある。
「夜の八時になってにわかに広坂通りが賑やかになった。ある人群れは公園のほうから、他の群は香林坊のほうから、どれも夜のなかで黒いマントなどを冠り、何か昂奮してしゃべりながら高等学校の門へ流れ込んでいった。片口安吉もそのなかにまじって門を入っていった。」
(中野重治「歌のわかれ」)
主人公片口安吉は中野重治の分身である。その後、中野は四高を卒業し東大へと進んでいく。
・この碑は旧制四高に学んだ井上靖の散文詩である。四高本館の左隣りの旧柔道場のあった近辺に建っている。柔道場は以外と狭く
あれで20畳敷き位だったろうか、こんな狭いところでよくやっていたなあという印象を受けた。
井上靖は高校生活の三年間は柔道に明け柔道に暮れた日々だったと述懐している。
流星という碑文には次のように記されている。
「高等学校の学生の頃、日本海の砂丘の上で、ひとりマントに身を包み、仰向けに横たわって、星の流れるのを見たことがある。
十一月の凍った星座から、一條の星光をひらめかし、忽焉と掻き消えたその星の所行ほど、強く私の青春の魂をゆり動かしたもの
はなかった。
それから半世紀、命あって、若き日と同じように、十一月の日本海の砂丘の上に横たわって、長く尾をひいて疾走する星を見る。
併し、心打たれるのは、その孤独な所行ではなく、ひとり恒星群から脱落し、天体を落下する星というものの終焉のみごとさ、
そのおどろくべき清潔さであった。」
・その先、用水は北上し、彦三地内を通過し小橋下流の岩根町東部児童公園で浅野川に注いでいる。